CPA
つまり心肺停止ですね
命だけは平等と言わんばかりに、老若男女問わず心停止の瞬間は訪れます
なんとか助けたいと我々も足掻くわけですが、どうにかなることもあればどうにもならないこともあるわけで
このあいだ
海で溺れていた子供が当院に搬送されてきました
現場でCPA
発見した親を含む人たちと救急隊により蘇生されて搬送されてきました
蘇生されているので、僕らの仕事はこの命のバトンをつなぐことです
しっかりと体が戻るまで、24時間体制で呼吸や循環動態の安定化を図ります
その子は自分の娘と同じ年齢の子でした
しばらくは体を休め、頭を休め・・・・というわけで、鎮静をかけて人工呼吸を行います
そろそろ意識の状態を確認しようと鎮静から醒ます時がきました
鎮静薬を終了しても、体内に薬物が残っていますからしばらくは意識が戻らないものなのですが、心肺停止の後だと、薬物のせいなのか脳にダメージを負っているのかがわからないのでヤキモキします
半日経って目が覚めず、祈りにも似た感情を持ち始めた頃、しっかりと体動が出てきて目が開きました
その後、人工呼吸からの離脱をして、無事抜管
おしゃべりできるようになって退院しました
元気になってから病室に採血に行った時、いやがってくれることが嬉しく感じられました
生きてる実感です
僕の祈りが届いたわけではありません
小児ではとにかく迅速な呼吸管理を要します
呼吸停止の段階で発見され治療されたら、生存率は60~70%とされますが
心停止で至った場合の生存率は10%程度と言われています
介入が早ければ早いほど良いです
この介入のタイミングがほとんど命運を分けると言っても過言ではありません
つい先日
また別な小児CPAが搬送されました
いつ心停止に至ったかわからない例でした
朝起きたら呼吸が止まっていたということでした
救急車内で呼吸再開ないしは心拍再開
という例と
現着時心静止で反応なし
という例では、自分の中に芽生える感情に幾分か違いが生じます
後者では、蘇生の見込みが薄いことは重々痛々しいほどわかっています
僕らにはやれるだけやる準備がありますが
やれることを全てやるということは時に暴力となります
心肺蘇生をやりながら、目の前の若すぎる命を前に狼狽えつつも、冷静に蘇生の見込みを評価します
どうしても厳しそうな時は
取り乱す両親にこの事実をどのように伝えようか
せめて安らかな時を冷たくなりゆく体に提供できないか
など頭を巡ります
命は平等とはいうものの
子供の命を見送った日は1日心に重たいものがのしかかって疲れてしまいます
医者は死に慣れている
などと言われますが、そんなことはないと思っています
特に子供の死には慣れません
救急医をやっていて一番のストレスは夜寝られないこととか、あまり自分の子供に会えないこととか、いろいろあるかもしれませんが
やっぱり死を受け入れるということかもしれないなと思いを巡らせています
ノーストレスで過ごせるほどまだ僕は図太くないようです
さて
今日はちょっと東京まで行ってきます
飛行機まで少し時間があり子供が幼稚園に行くのを見送りに行けました
朝「おはよう」と言えるだけで幸せなものです